選手としても人間としても超一流のイニエスタが日本平にやってきた
言うまでもないが、アンドレス・イニエスタは世界最高の選手の一人で、傲慢になってもおかしくないほどの富と名声を得ている。
にもかかわらず、イニエスタは選手としてでなく、人間としても超一流である、ということは、様々なサッカー記事のみならず、サッカー選手たちにも証言されている。
FCバルセロナ所属時代、イニエスタが試合中に怒ることは稀だったし、相手を挑発したりラフなプレーをする印象はほとんどない。実際、イニエスタが対戦相手に向かって感情をむき出しにすると、ヨーロッパのメディアは驚いていた。
たとえば、FCバルセロナの地元カタルーニャのテレビ局TV3などは、自局で放送していたコメディ番組『クラコビア(Crackovia)』でイニエスタがロナウドに感情をあらわにするシーンを下記のように題材にしていたほどだ。
自分はFCバルセロナに所属していたころのイニエスタのプレーや立ち振る舞いを、テレビ放送や、カンプノウや日本でのクラブワールドカップでの生観戦などで見たことがあり、都度「すげーな」と思っていた。
そんなイニエスタがJリーグでプレーする、そして、日本平に来るなど想像できなかった。
しかし、2018年になりヴィッセル神戸はイニエスタを獲得した。
そして、自分が応援する清水エスパルスの本拠地IAI日本平スタジアムに、はじめてイニエスタがやってきた。そこでイニエスタの姿を見て、自分はこれまで以上に、イニエスタに深い尊敬の念を抱くようになった。
ロスタイムに入った時点で清水2-3神戸
2018年11月24日のJリーグ、清水エスパルス対ヴィッセル神戸。
2018年はイニエスタがヴィッセルに加入した年で、イニエスタをひとめ見ようと各スタジアムでチケット争奪戦が発生し、エスパルスの本拠地日本平も例外でなかった。チケットは早々に売り切れ(自分は幸いにも入手できた)、スタジアムは満員だった。
試合開始前には選手入場時に掲げられるようにとオレンジのボードが配布され、オレンジ一色に染まったスタジアムと、遠くに見える富士山でスタジアムの景色は美しかった。
もちろん、試合開始前は誰もその後起こる、前代未聞のロスタイムのことなど知らない。高揚感とともに試合ははじまった。
試合は前半26分センターサークル付近からペナルティーエリア左側へ出されたイニエスタの巧みな浮き球のパスを、神戸の藤田直之がトラップすることなく左足で叩き込み先制(自分の後ろから来たボールを、利き足とは逆の左足でゴール左上に叩き込む藤田の技術もすごかった)。
一方清水は前半39分、神戸のパスミスを河合陽介がひろうとペナルティーエリアに向かって進んだ。そして、河合は右にいた金子にはたき、金子はダイレクトでそのボールをなかに折り返し、ゴール前に走ってきた河合がダイレクトであわせ同点ゴール。
ハーフタイムを経て後半7分、古橋享悟のふわりとしたヘディングは、おそらく太陽の光が目に入りボールが見えていなかったであろう清水のキーパー六反勇治の上をこえゴール(日本平ではこの西日でボールが見えない問題がしばしば発生する。実際、デーゲームではしばしば、ビジター席側ゴールを守るディフェンダーやキーパーが太陽の光を消すために目の上に手を置くシーンが散見される)。
さらに後半17分神戸の三田啓貴の左足のクロスのような軌道の浮き球が、(ループシュートを狙ったか定かでないが)そのままゴールに入り神戸は3得点目。
一方、後半38分に神戸の藤田が2枚目のイエローで退場になっていたこともあり、数的優位になっていた清水はゴールへの意欲を見せ、後半42分、左サイドの松原后のセンタリングが流れたのを白崎凌兵が回収したあと、近くにいた鄭大世がピンポイントのクロスをドウグラスが頭で叩き込み清水2-3神戸とした。
ロスタイム4分のはずが18分50秒
後半45分、ロスタイムは4分と表示された。
にもかかわらず、審判がどうしてロスタイムを18分50秒までとってしまったのかの考察は、下記のJリーグジャッジリプレーの動画で分析されている。
実際に審判委員会で、当該審判のヒアリングも済ませたうえでの分析だろうし、基本的な流れや背景は、この通りなんだと思う。
加えて、この日スタジアムにいた人間として、次の点も大きなポイントだったと追加したい。
それは、清水の選手を救急搬送する救急車のサイレンが数分間の間に2回鳴り響いたこと、そして、それを聞いて怒りが爆発し、敵討ちに燃える清水サポーターの怨念が作った異様な空気だ。
それが、試合を通して危ないチャージを流す傾向にあった審判から、更に正常な判断力を失わせたと今でも思う。
この試合、前半試合開始後から全体的に選手同士の当たりが激しく、清水サポーターには試合を通してとってもらいたいファールがとられないというストレスが蓄積されていたと記憶している(逆の立場の神戸サポーターも同様のストレスがあったと思う)。
そんななか、そのロスタイムも3分ほどが経過したころ、パワープレー要因で前線にいた清水の立田悠悟が神戸の大崎玲央に空中で後ろから当たられたにも関わらず、ファールが取れられなかった。
そこで清水サポーターは一斉に怒りの声を上げて立ち上がった。
そして、その次の瞬間、浮き球を真下からジャンプしヘディングしようとしていた清水の河合に向かって、神戸の橋本和が勢いをもって飛びこんで競ろうとした。しかし、橋本の頭がボールではなく、河合の頭に叩き込まれる形となり、頭を打たれた側の河合が倒れ落ちた。
明らかに危ない頭の打たれ方だったし、河合の倒れこみ方がただごとでないと清水サポーターは即時にわかった。
にも関わらず、審判は試合を止めず、神戸はボールを回収し、清水ゴールに向かってボールを運んだあと時間を使うようにボールを動かした。
清水のサポーターは審判に向かって「河合が倒れている。試合を止めろ」と叫んだ。
清水の選手たちの強い働きかけてやっと審判は試合を止めたが、河合は立ち上がることができず、処置に4~5分費やされた後、河合は担架でピッチを去った。そして、河合を運ぶ救急車のサイレンがけたたましく鳴った。
ここで、前半から神戸の強い当たりを流され続けてきたというストレスが溜まっていた清水のサポーターの怒りが爆発した。
そして「ロスタイムを事務的に終わらせるなよ。こっちはひとり選手が病院送りにされたんだからな」という怨念がスタジアム中に巻き起こった。
自らがいうのもなんだが、清水のサポーターが作る雰囲気は、普段はあまり怖くない。
サンバのリズムで相手ものせてしまっていることもあるのではないか、と心配になることすらある。
けれど、河合を運ぶ救急車の音を聞いたあと清水サポーターが作った怒りの空気は、世界各地でサッカーを見てきた自分からみても欧州や南米に負けていなかった。
その影響もあって、試合はすぐに終了の笛を吹きにくい心理になったと思う。
神戸はすぐに終わらない試合にフラストレーションがたまり、ロスタイム8分ころに神戸のポドルスキーがボールの競り合いとは関係なく、意図的に清水の立田へ危険な体のぶつけ方をした。
どこの国の人がみても明らかに悪意あるファールだった。
清水ファンは、ポドルスキのラフプレーに対し怒りの声を上げ、一斉に立ち上がった。
だが、ここでもまた審判はファールをとらず試合を流した。
体をぶつけられた立田は地面でのたうち回りつづけ、試合が再度中断された。
ふたたび措置のために試合が3~4分前後とまったあと、立田は河合と同様担架でピッチの外に運び出された。
そして、再びけたたましく、2台めの救急車のサイレンの音が鳴り響いた。
サイレンを聞いた誰もが「河合に続いて、立田も病院送りにされた」と思った。
数分間の間に、救急車が2台出動するということは、かなりの大事だ。
清水サポーターの怒りは再度爆発した。
一方、あくまで憶測だが、審判にも救急車の2度のサイレン音は聞こえていたと思う。
自分の試合の裁きかたもあり、短期間に2人が救急車で運ばれたという事実に、審判も後ろめたくなったことが、ロスタイムのさらなる追加の遠因になったのではないか。
河合が病院送りにされた時点でのロスタイムが3分台、その後、救急車で運ばれた河合の処置で約4分中断し、ロスタイム8分頃に試合が再開し、ロスタイム8分45秒ころポドルスキーに立田が体をぶつけられ、その処置に3~4分かかったとしても、冷静に突き放してみれば試合は終わるべきだったのだろう。
けれどプレーは続いた。
スタジアムの全方向からピッチに向けられる復讐心に満ちた雰囲気のなか、選手の救急措置で止まる前、そして止まった時間などを考慮しながら、冷静にロスタイムを数えるのは審判も難しかったと思う。
スタジアムの全方位から怒号と怨念が審判のもとに一点集中した。
そんな空気のなかロスタイムを計算するのと、試合のあと録画映像を確認しながらロスタイムを計算するのでは、勝手があまりにもちがう。
そして、ロスタイム13分に、清水の石毛秀樹が蹴ったコーナーキックを、清水のゴールキーパー六反がヘディングで決めるという、清水側から見たらかつてなく劇的で、神戸側から見たらあまりにもアンフェアな同点ゴールが決まった。
同点ゴールで試合が終わると思いきや、更に試合は続いた
清水サポーターである自分も驚いたことに、同点ゴールが決まったあとも試合が続いた。
結果、ロスタイム14分台に、不満が鬱積した神戸のウエリントンが、清水の石毛に激しく当たりイエローカード。さらに、判定に異議をとなえるウエリントンをなだめるために駆け寄った清水のキーパー六反を、ウエリントンが相撲の投げ技のような形で押し倒し、2度目のイエローで退場(あの場面で、わざわざ自陣ゴールから相手陣地で起こったファール現場へ行く六反は狡猾だった)。
そしてウエリントンが大暴れして乱闘騒ぎが起こった。
カオスといっても過言でない空気がスタジアムに充満していた。
皆をなだめ、落ち着かせようとするイニエスタ
選手のみならず、チームスタッフも巻き込まれる形で乱闘騒ぎが起こる中、イニエスタは懸命に選手たちを落ち着かせようとしていたのが、観客席からもわかった。
世界の舞台で数々の修羅場をくぐってきた名手も、ここまで長いロスタイムは経験したことがなかっただろうし、アジアの国で発生した摩訶不思議な現象にイライラし怒り狂ってもおかしくない(ちなみに、もうひとりの世界的名手ポドルスキーは乱闘に参加し、清水のチームスタッフともめていた)。
けれど、イニエスタは、怒り狂ったウエリントンをはじめ、感情的になっている選手たちをなだめ、和平のための調停役として懸命に動いていた。
こんな状況でも、しっかりとした振る舞いができるイニエスタのことを、自分は心の底から尊敬した。
あんなにサッカーがうまいうえに、人間としてもここまでしっかりしているなんて、と敬服した。
アウェイの清水まで駆け付けた神戸サポーターのことを考えると、複雑な気分にもなった
乱闘が収まり、ロスタイム18分50秒の試合が終わった。
歴史的な試合を目撃したという興奮と、自分の応援するチームが劇的に引き分けに追いついたことで、自分は雄たけびをあげて喜んだ。
しかし、しばらくたって冷静になり、もしも自分が逆の立場だったらと考えると、複雑になった。
首都圏在住の自分にとって、静岡県は地元とはいえ、日本平スタジアムまで行くのは遠征になる。
しかも、日本平はお世辞にもアクセスがよいといえない。やっと清水駅に着いた後も、シャトルバスの列を待ち、30分前後バスに揺られないといけない。
そうしてカネと時間をかけ清水エスパルスの試合を見に行き、情けない戦いぶりや、劇的な負け試合、おかしな判定で勝ち点を失った試合を見たりすると、わざわざ首都圏から日本平まで足を運んだ自らの判断や愚かさを呪うことになる(そういう経験を何度もしているにも関わらず、コロナ前までは懲りずに日本平に何度も足を運んでいたが)。
そういう経験があるだけに、自分が費やしたのより大きい時間とお金をつかって神戸から清水までわざわざやってきて、自ら応援するチームが不可解に長いロスタイムをとられ、最後同点に追いつかれるというシーンを見せつけられた神戸サポーターの心の痛みが深いことは想像ができた。そして、複雑な気分になった。
また、この日は、2018年シーズン最後の清水のホームゲームで、引退を表明していた清水の兵働昭引の引退セレモニーが用意されていたのだが、そこで兵働へのねぎらいのボードを掲げてくれる神戸のサポーターもいた。
自分にはそんな振る舞いはできないと思ったし、イニエスタや兵働へのねぎらいボードをかかげてくれた神戸サポーターのような心を持ちたいと思ったが、そういう心を実際に備えられる自信を、2021年になった今も持てずにいる。
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